2018年7月号 50回目のボストンマラソン

1968年、私は初めてのボストンマラソン出走のためにトレーニングを始めた。私は当時18歳、今振り返れば完全に自己流のトレーニングだった。マラソンのためにどう準備をしたら良いのか、何も知識がなかった。

私がこの決断に及んだプロセスは、次のようなものだった。愛国者の日(Patriot’s day)の日に26マイル走ってみたい。1日1マイルずつ走ればボストンマラソンまでに26マイル走ることになる。それが私の実行した準備であった。大会の2日前までに24マイルに達した。そこで思った。「これで完璧だ。準備万端だ。」しかし、私は少々考えが甘かった。

当時はレースの出場基準を満たさなくても出場できた。ただ大会責任者のジョック・センプルの所に行って、話をつけ、エントリーフォームを貰えばよかった。私はボストンマラソンに申し込む前に5マイル以上走ったことがなかった。そして大会1ヶ月前まで、ロードレースに出たこともなかった。

レースの朝、私はハーバード・スクウェアのカフェテリアでステーキを食べた。その当時は、参加ランナー皆がそうしていたのだ。応援席でランニングウェアに着替え、聴診器を持った医師に体調を診てもらうために、列に並んだ。医師は、選手が健康でレースに参加できることを確認した。

ホプキントンのスタート地点に向かうバスに乗りながら、周りの選手たちが自分たちのトレーニングについて話をしているのを耳にした。私はただ黙って客席に座って、耳から入ってくる会話に驚いた。「何てことだ。とんでも所に来てしまった。」

私の初めてのボストンマラソンの思い出は、この有名なコースにいるという自分自身の誇り、そして両側の沿道で熱心に応援している人々の声援が混じり合ったものだった。当時は900人ほどのランナー達がいたと思う。今のように応援の人でごった返しているということはなかった。最後の直線コースも今より短かった。私は興奮と感謝の念と、レースの最終直線コースを走りながらこみ上げてくる全ての感動と、無事レースを完走できると確信した安堵感で、胸が一杯になった。

レースが終わった後、カフェテリアでビーフシチューを食べた。初めてゴールを切った後のこの思いは、もうこの一度で十分だと思った。踵にできた水ぶくれがひどく痛んだ。でも何故か気分は爽快だった。レースから数ヶ月経って、私は再びボストンに挑戦しようと決意した。初回の挑戦が2回になり、 毎年参加することになった。

これまで約86回のフルマラソンを走ってきた。その中にはマリーン・コープスマラソンが16回、ニューヨークマラソンが数回含まれている。しかし、現在はボストンマラソンしか走っていない。私をボストンマラソンに留まらせている理由は、まさに私が出場最多記録を保持しているからである。これまで、私は50回ボストンを走ってきた。

1972年の5回目のボストンマラソン出場はちょっと危ういものだった。当時私は、上院議員ジョージ・マクガバーン氏の大統領選キャンペーンで仕事をしており、予備選が進むにつれて、州から州へと飛びまわる遊説の出張が多くなっていた。レースに参加するためには、マサチューセッツ州に戻らなければならなかった。

「分かっているよな?ベン。今は僕は動きがとれないんだ。マサチューセッツに戻るにもお金がかかる。」と、自問自答の日々を過ごしていた。しかし私はどうしても走りたかった。選挙キャンペーンのために、トレーニングも十分ではなかったが、私はボストンに向かった。ボストンは私のルーティーンの一部になっていたのだ。ボストンに友達もいたし、ボストンの街が大好きだった。この時点で、私はボストンマラソンは必ず出場すると誓ったのだった。

私は、ボストンのこの極めて独特な雰囲気が、何故かニューオーリンズに似ていると思う。レースのコースは他のレースとはかなり違うが、このマラソンは世界でも有数の名マラソンであり、世界最古の伝統マラソンであり、世界中から選りすぐられた駿足選手が集まってくる。レース当日はフェンウエイ球場でレッドソックスのホーム試合もやっている。素晴らしいボランテイア達と素敵な応援をし続ける観客。何をとっても特別なレースなのである。

このコースを走っている間、私は色々なものを楽しみに走っている。例えば、ウェルズリーカレッジの辺りである。その辺りは中間地点となる。私の息子はボストンカレッジに進学したという事もあり、21マイル地点は私にとって昔よりも特別な場所になっている。フェンウェイ公園は25マイル地点で出てくる。あのあたりでは、高校時代の友人がレッドソックス観戦帰りに私を待っていて応援してくれる。それら全てが、私にとって特別な瞬間なのである。

かつてはボストンのコースをかなり速く走り抜けたものだが、今では当時の2倍の時間がかかるようになってしまった。私はここ15年間、筋失調症という神経の疾患を抱えている。ほとんど知られていない疾患であり、この症状は何が原因なのか分かるまでに4年もかかった。私が筋失調症についてもっと多くの人に知ってもらうようにすれば、同じ疾患を抱える人が、診断までに4年もかからなくて済むようになるかもしれない。そしてもっと早く適切な治療を受けられるようになるだろう。

この筋失調症とは、私の脳が私の左のハムストリング筋にシグナルを送ってしまうのである。少なくとも国立衛生研究所(National Institutes of Health)の医師達はそう言っている。私が左足で状態を前に進めようとする時に、私の脳がハムストリング筋に「伸ばせ」という代わりに「縮めろ」という命令を出してしまうのである。

私の足取りは哀れなほどにギクシャクしている。しかし、驚いたことに、私の身体が適応したのである。私は今でも週3回走ることができる。調子の良い月には50マイル走ることができる。勿論、これはマラソンのトレーニングとは言い難いのだが。私はボストンアスレチック連盟にとても感謝している。連盟は私が出場資格を満たしていないにもかかわらず、私が走ることを許可してくれているのである。

「ねえ、ベン。もうボストンマラソン参加が50回に達したよね。十分やったじゃない?」と言う人もいる。私はボストンマラソンを何十回も走ってきたけれど、前より刺激がないし、ワクワク感がないということがあるだろうか?私はそんな風に感じたことは一度もない。私のボストンへのスタンスはいつも、「走れる限り、私は走る。」なのである。

だから、私はこれからもずっとボストンに出かけていくのだ。

Bennett Beach

ベネット・ビーチ
50回ボストンマラソンエントリーランナー
当翻訳は、2018年ボストンマラソンを機にエキスポで販売されていた「OUTSIDE/in」という単行本の一部のうち、心を打たれた記事を選んで和訳したものです。122回ボストンマラソンが、私にとって連続10回目のボストンであったため、それを記念して、自社のEEWブログに2回目の掲載をさせて頂きました。EEWとの関連性が低いとお感じになった方は、ご容赦ください。

2018年6月号 ボストンの試練を乗り越えて

陰鬱な日曜の朝、ドシャ降りの雨が私の目に跳ね返ってきた。コモンウェルスとグラント通りの交差点、すなわち16マイル地点に辿り着く前に、冷たい雨がウェアに染み込んで、私は身体に余計な重みが加わったのを感じていた。それから、ニュートン町の悪名高い心臓破りの丘のふもとから吹き付ける風に向かって、 長く単調な走りが始まった。

大腿四頭筋に岩が重くのしかかっているような感覚を懸命に無視しようとしていたが、8年前に初めてボストンマラソンに参加して、まさに同じロードを走っていた時に感じた脅迫的とも言える感覚が未だに身体に残っていて、それから逃れることができなかった 。その1年後の2011年に2回目の挑戦をしたのだが、その時は右の親指辺りに風船のように膨らんだ水膨れが痛んだ。そんな痛みは御免だった。そこから6マイル走ってゴールを切った後で、血がランニングシューズから染み出ているに気がついた。

20マイルの地点では、肺と足を動かすのに全ての力をふり絞らなければならなかった。その時には今回のように準備万端ではなかった。しかし今は肉体的にも精神的にもあの時よりもまさっている。ランナーとして18年のキャリアを積み、たこのできた足で12回のマラソンを走ってきたのだ。世界記録保持者であるウィルソン・キプサング(2017年東京マラソンでも2:03:58の日本国内最高タイムで優勝)が私に語ったことについて思いを巡らしながら、独りで何十マイルも何百マイルも走ることで、精神的なタフさを磨いてきたのだ。キプサングが語ったのはこれである。「精神が身体をコントロールしている。身体が精神をコントロールしているのではない。」

何時間もヨガのポーズを続けることで、私の足はヒリヒリと痛んだが、それによって不快感に耐えながら集中力を保つことを学んだ。また世界中のランナー達が、エネルギーを使い果たした後、如何にして一歩一歩のペースを保っていくかを私に教えてくれた。
2010年のボストンマラソンでは、泣きながらゴールを切り、私を抱きしめてくれた祖母の耳に「もう2度とこのレースには出ない。」と囁いた。しかし今、私はもはやあの時のランナーではない。

あの時は、痛みが恐怖だった。今は、痛みを受け入れることができる。

ボストンに暮らすということは、それがたったの数日間であれ、数週間であれ、永久的であれ、私たちにタフになることを教えてくれる。

私はこれまでマラソン参加者として、観客として、リポーターとしてボストン滞在を何度も経験してきた。その度に、ボストンの街が非常に高く評価しているスポーツへの限りない情熱を目の当たりにしてきた。

しかし、そのような情熱を掻き立てるのは、ボストンマラソンがアメリカの最も高名なマラソンだからという理由からだけではない。ボストンの「走る文化」の心臓部にあるのは、自然に深く根付いたスピリットであり、熱狂的な情熱である。

外からやってきたアウトサイダーとして、私はそこら中でその証拠を見ている。ビーコンヒルのリビア通りの坂を、ランナー達が朝の6時13分に容赦なく走り抜けていくのを見てきた。夜の10時20分にチャールズ川沿いの道で、暗がりの中を黒い氷を避けながらランナー達が走っていくのも見てきた。そして、チェスナットヒル貯水池近くで、積もったばかりの雪の上で滑らないように足を蹴りながら優雅に走っていく姿も見てきたのだ。

彼らの絶え間ない研鑽と限りない意欲は、私にもやる気を起こさずにはいられない。上り坂を少しでも速く走れるように、集中力を少しでも高められるようにと私を駆り立てるのである。ボストンは、ランナーとしての最高の自分をさらに高めたくなる場所なのである。

「もし、ランナー達のための街があるとすれば、それはボストンである。」とあるボストン出身者は誇りを持って語る。

この魅力的な街は最も美しい方法でスポーツを表現してきた。ここから先は、ローカルのランナー達のレンズを通して、そのことが語られる。キャサリン・スウィツアー(1967年、女性の参加が認められていなかったボストンマラソンに性別を悟られないよう「K. V. スウィッツァー」の登録名で参加)は、ボストンマラソンで公式ゼッケンをつけて走った最初の女性ランナーである。ケニアのジョフリー・ムタイはボストンマラソンで最高記録(2時間3分2秒、2011年4月18日)を樹立している。ベネット・ビーチはボストンマラソンにこれまで50回参加しており、参加回数最多ランナーである。彼らは、ボストンが走るためのインスピレーションを限りなく与えてくれる場所であることを明かしてくれた。

私はもはや痛みを恐れることはない。彼らが与えてくれるインスピレーションによって、私は13回目となるマラソン参加、そして3度目となるボストンマラソン挑戦のための準備を整えてきたのだ。彼らの語る言葉とそして私が語ったことが、あなたの次の走りのためのインスピレーションとなりますように。

Sarah Gearhart, New York

当翻訳は、2018年ボストンマラソンを機にエキスポで販売されていた「OUTSIDE/in」という単行本の一部のうち、心を打たれた記事を選んで和訳したものです。122回ボストンマラソンが、私にとって連続10回目のボストンだあったため、それを記念して、自社のEEWブログに掲載させて頂きました。EEWとの関連性が低いとお感じになった方は、ご容赦ください。訳者 丸 誠一郎

2015年7月号 Fragile by Design

この「Fragile by Design」という本 http://fragilebydesign.com/ は、政治と銀行経営危機の関係について徹底分析をおこなった最初の作品です。あなたは、どう考えますか?
私は、スタンフォード大学のStephen Haber氏と共に、過去30年間に渡ってバンキング・システムのリスク問題について、其々研究を行ってきました。そして、一連の研究によって、銀行システムは、政治が与えるインパクトによって、大きな影響を受けてきたことが分かってきました。
銀行経営経験者や銀行について徹底的に調査しているジャーナリスト達に訊ねてみると、銀行システム維持には政治がいかに重要な役割を担っているかということを、誰もが語ることでしょう。しかし、多くのアカデミックな分析では、政治はフットノートに過ぎないことが多いのです。我々は、直近の銀行経営危機だけではなく、過去35年に遡る銀行の経営危機について知りたいと思いました。過去35年間では、英国、ロシア、アルゼンチン、アイスランドのような異なる国々も含めた100以上の国が銀行経営危機を経験しています。銀行システムがなぜ時として機能不全に陥り、また時には成功し、何故一部の国の銀行システムだけが機能不全を脱して、正常に機能するようになるのか、我々は知りたいと思いました。
我々は政治がこれらの銀行機能に決定的に重要な意味を持つことに気が付きました。そこでまず、様々な国の銀行の歴史を政治的歴史に照らし合わせながら調べ始めました。その国の憲法がどこから来ているのか。どのように制定されたか。政府にはどのようなシステムがあるのかなどについて調査しました。我々はこれらの政治ファクターが銀行の機能不全、或は健全な機能(両方とも銀行システムの不安定性と与信枠の不足という観点で捉えています)を生む主な原因である可能性が高いと考えました。そしてこの問題についての、30余年の調査結果によって、政治と銀行システムの機能の関係は、一般的な議論をこえる相関関係があることが分かったのです。

どうやって理論を確かめるか?

我々は、物語形式(narrative)の歴史分析を経済理論と政治理論を用いて行うことによって、政治システムがどのように機能するかを示すことができると考えています。我々のこの著書がそれを証明しています。歴史的出来事を綿密に調査し、分析ツールを用いて、実際に政治が銀行の業績を左右していることを知ることができるのです。

我々はブラジル、カナダ、英国、メキシコ、米国を調査しました。これら5カ国の歴史を200年から400年遡ると、政治が銀行システムにいかに影響を与えてきたか、またどの程度これらのシステムが成功しているかを理解することができました。

対照的な米国とカナダの歴史。米国が17回もの深刻な銀行危機を経験したのに対し、カナダにおける直近の銀行危機1839年で、過去僅か2回しか経験していない。

カナダにおける1839年の小規模の銀行危機は米国の危機の余波を受けたものに過ぎませんでした。カナダはかつて大規模な銀行危機を経験したことがありませんでした。これは政治的な歴史によって説明することができるのです。
米国が極めて分散型の国家政治体制を築いてきたのに対し、カナダは逆の体制づくりをしてきました。カナダの銀行システムは、政府によって認可されるものであり、中央集権型です。一方米国は、かつて小規模の独立型銀行が地域のコミュニティーに銀行サービスを施すものでした。また重要なことですが、カナダでは公務に携わる当局者達が全て選挙で選ばれるわけではなく、上院議員達が指名制で選出してきました。つまりこのカナダのシステムは比較的ポピュリストの影響を受けにくいのです。私がポピュリストの影響と言う場合、民主主義の中で一丸となり自分たちの利益になるような法律を通そうとする 中小銀行や地方のポピュリスト達のことを指しています。カナダでは 2世紀に渡って州内の分権でさえ阻止することに成功してきたのです(つまり「餅は餅屋」という歴史でした)。ジェームス・マディソン(James Madison)は米国の建国者の一人ですが、彼はこのような自分たちの利益になるような法律を通そうとする人たちのことを党派(ポピュリスト)と呼んできました。そしてカナダの民主主義は、ポピュリスト達の連合が経済政策をコントロールすることを上手く阻止するよう、憲法上の拒否権を組み入れたのです。

米国政治的連合(結託)が銀行システムの不安定さの大きな要因。

ポピュリストの党派は1800年代初期から米国政治の中心的原動力でした。これらの党派のアイデンティティーは、時代の流れと共に変化してきましが、一つのグループが別のグループと一緒になり、自分たちに有益な銀行法諸規定を制定することが出来るよう主張してきたのです。たとえそれらの銀行法諸規定が銀行システムを極めて不安定にするものであっても、彼らにとっては関係ないと判断してきたのです。我々の著書では、これを“Game of Bank Bargains(銀行特売ゲーム)”と称しています。

先ず1810年頃に始まった農業改革者(土地分配論者)と単一銀行の 連合が存在しました。彼らは一丸となって支店銀行制に反対しました。単一銀行は小規模で且つ独立しており、国中に支店展開している銀行とは競合関係になりなくなかったのです。この動きは地方に住む人口の減少と共に弱くなっていきました。従って1810年から1994年の間、米国は大手銀行同士の統合及び全国または州内での支店開設を制限していたのです。しかし、この流れは1980年代から崩れ始めました。この変化は様々な影響によるものです。一つには、預貯金保護危機とローン債権危機によるものです。これによって、連邦準備銀行、特にthe Federal Deposit Insurance Corporation(FDIC; 連邦預金保険公社)が多大な赤字を抱えたのです。この赤字は、中小銀行や脆弱な銀行が経営破綻したことが原因でした。一体誰がこの赤字を賄うのか?そこでオハイオ、ノースカロライナ、カリフォルニア州などの少数のバンカーが、一歩前に出て州内での支店開設を許可したのです。これらのバンカーはFDICに対して、もし政府が規制を緩和して州外での支店開設も許可するならば、一連の赤字額を削減することができると主張してきたのです。
FDICと連邦準備銀行、政治家達は次第にその主張の利点を理解するようになりました。そして大手銀行が中小銀行を買収することを認可されるようになると、これらの大手銀行は更に政治システムのプロセスにおいても影響力を増すようになってきました。しかし、それは米国が(カナダの)特許銀行や権限集中型のカナダ金融当局のようになったという意味ではありません。米国は統合合併する銀行が善良な市民であるかどうかを判断するために、地域のコミュニティー団体が意見を出すことのできる承認プロセスを設けたのです。
これは一見良いアイデアのように見えますが、そのように考えるエコノミストに私は過去に会ったことがありません。米国において突如としてこの極めて政治色の強い制度が導入され、連邦準備銀行はその中で所謂板挟みになったのです。この制度によって、都市の活動家達の団体が組織され、銀行が善良な市民であるかどうかを決定することになりました。しかし、その主な決定基準が、銀行が彼らにいくら資金を与えたかによるものだったのです。これは決して冗談ではありません。銀行はこれらの団体が連邦準備銀行の公聴会に出席して銀行に有利な証言をするように、実際にこれらのコミュニティーのグループに対価を与える契約を結んでいたのです。
1992年から2006年までの間に、これらの銀行が保留になっている統合合併の承認を求めている時点で、8,670億ドルの資金が銀行からコミュニティーのグループに流れていたのです(同期間での合計金額は2.5兆ドルである)。支払いは大部分が貸付の形で行われており、これらの団体は都市部に住む貧困層に助成金付き貸付として資金注入しています。

我々が特定の政策に関して提言しないのは何故か?

エコノミストが答えをだすのではなく、政治的連合が(銀行機能の脆弱性または健全性の)答えを出すだろうと論じるこの著書の中で、我々エコノミストが政策 について助言するのもおかしなものでしょう。勿論、他の著書では政策について助言をすることがよくあります。しかしその過程で、私は適切な政策のアイデアというものは政治的に重大なシフトが生じて、システムがそれを受け入れ易くなった場合にのみ採用されるものだと言うことが分りました。これは1980年代後半にブラジルで起きています。その時には政治的なシフトが銀行システムの成功を導いたのです。メキシコでは1990年代に起きました。英国では1970年代と1980年代に起きています。ファンダメンタルな政治的シフトは適切なアイデアを生むチャンスを増やすのです。しかし、エコノミストにはできないことがあります。それはエコノミスト達が自覚すべきことですが、政治的シフトを起こすことです。これ自体はエコノミストにはできないことなのです。

エコノミストとして、我々は「抑制と均衡がとれた適切な政治システムを設計することのできる国があり、そうした政治システムは十分な与信枠のある安定した銀行システムを生むことができる。」と主張します。カナダでは200年間それをやってきたのです。おそらく、我々も米国でカナダのやり方を取り入れることができるでしょう。しかし、米国にとって鍵となる問題は、もっと適切な政策を可能にするような政治的シフトが起きるかどうかなのです。私は楽観論者ではありませんが、政治的シフトが不可能であるとは思いません。これは冗談ですが、私は、月曜、水曜、金曜には政策のプロポーザルを書き、火曜、木曜、土曜には政治経済学について書き、エコノミストの政策プロポーザルがいかに意味をなさないかを皆さんにお示しします。そして日曜日には、神様の前で祈るだけです。

Columbia Business Schoolを訪問した際に提供された季刊冊子「Columbia Ideas at Work」-Winter 2015に掲載されていた、「Fragile by Design」(Charles Calomiris教授著)という記事を要約してみました。
【バックナンバー】 http://newburybc.com/eew/
【連絡先】 smaru@newburybc.com
【配信元】  ニューベリービジネスコンサルティング株式会社     www.newburybc.com

2015年6月号  What Makes an Idea Creative?

卓越したアイデアというものは、アイザック・ニュートンの頭に落ちたと言われている林檎のように、不意に思いがけなく生まれるものだと多くの人は信じていますが、それは誤った認識なのです。事実、殆どの新しいアイデアというのは、それが如何に画期的なものであっても、革新的なものであっても、それ以前からあったアイデアと密接に関連しているのです。アイデアの創出とソーシャル・ネットワークについて研究しているオリヴィエ・トウビア教授によると、「新しいアイデアの発想は、独創的なお料理に例えられる」と述べられています。つまり、既存の材料と既存のレシピを組み合わせたり、一部を変えたりすることによって、新しいものが生み出されるのです。
しかし、材料をどのように組み合わせたりアレンジしたら、卓越したアイデアが生まれるのでしょうか、又、その方法を特定する事が出来るのでしょうか。 この疑問に答えるべく、トウビア教授はオベッド・ネッザー教授との共同研究で、アイデアに含まれる様々な構成要素と創造性の関連性を見いだしました。これは、最もクリエイティブとされるアイデアの構成要素が、斬新性(novelty)と普遍性(familiarity)の点でどのように上手くバランスを保っているのかを数量化したもので、初めての画期的な研究でした。
二人の教授は、8つの一連の実験を行いました。実験では、参加者が特定のトピック(例えばヘルスケアの商品をいかに改良するか等)についてアイデアを出します。4,000件以上のアイデアが出された後、各アイデアは審査員によって評価されます。審査員は消費者、該当分野の専門家、オンライン上のアイデア創出コミュニティーのメンバー達で構成されています。各アイデアに「創造性」に対する評価の平均点が出されます。
ネッザー教授は、ビジネスの意思決定のためにビッグデータ(情報通信技術の進展により、生成・収集・蓄積等が可能・容易になる多種多量のデーター)と関連ツールをどのように活用きるかを研究しており、この実験では、自動的に何千ものアイデアを読み込み、どのアイデアが最もクリエイティブと見なされるかを予想するために、テキストマイニングツール(定型化されていない文章の集まりを自然言語解析の手法を使って単語やフレーズに分割し、それらの出現頻度や相関関係を分析して有用な情報を抽出する手法やシステム)のようなビッグデータの分野のテクニックを使ったと述べています。
「お料理」との類似性については、各アイデアをレシピに例えることができるでしょう。テキストマイニングにより、まず材料を選ぶことができます。そしてネットワーク分析を用いて、教授らは基本的ネットワーク内にある、これらの材料の関連性を分析することができます。もし、誰かに「オムレツのアイデアを出すように」と指示ずると、「卵とチーズを混ぜます。」という人達がいるでしょう。彼らは極めて一般的、且つよく知られた組み合わせを選んでいるのです。しかし、卵とミントを混ぜるというアイデアが出るとすると、それはあまり一般的ではなく、より斬新な組み合わせなのです。
これらの組み合わせを見て、教授らは各アイデアにおける斬新性と普遍性の組み合わせを数量化することに成功しました。「オムレツ」に卵とチーズとミントが使われている場合、それは平均的な組み合わせ(卵とチーズ)と斬新的な組み合わせ(卵とミント、又はチーズとミント)の両方を含んでいます。実験によると、最もクリエイティブと見なされたアイデアは、斬新性と普遍性の両方を備えたものでした。「もし、あるアイデアが刺激のある斬新なものとして受け取られるとすると、何かしらの仕掛けがなければならない。」とトウビア教授は述べています。つまり、同時に、何か普遍的なもの、馴染みのあるものも含んでいなければならないのです。この斬新性と普遍性のどの組み合わせが最適なのかを知るために、二人の教授は、過去に心理学者と生物学者達が発見した「The beauty-in-averageness(平均美) 効果」という理論に辿りつきました。 最も平均的な特徴を持った人間の顔が、最も美しいと感じられるのと同様に、斬新性と普遍性のプロトタイプ的な面との組み合わせを備えたアイデアが「最もクリエイティブな顔」と判断されることを、彼らは見い出したのです。
この研究の最終段階で、二人の教授はさらに、先の研究結果をもとにして人間が問題を最も効果的、創造的に解決できるような方法を研究しました。 この研究参加者にはユーザーが健康を改善するためのスマートフォン・アプリのクリエイティブなアイデアを出すように指示しました。まず幾つかの健康アプリのユーザー同士のディスカッションから、二人の教授が500のコンセプトをテキストマイニングします。そしてそれらコンセプトを斬新性と普遍性の理想的な組み合わせに近づけることにより、参加者のアイデアを改善するようなツールを設計したのです。
例えば、ある消費者が基本的な500のコンセプトの中から3つの要素を盛り込んだスマートフォンのアプリを提案し、その3つがどれも極めて平均的なものである場合、アイデアをさらに斬新性と普遍性の理想的な組み合わせに近づけるために、ツールは非平均的な、他とは異なるコンセプトを提案することができました。同様に、消費者が5つのコンセプトを選び、それらが全て非平均的なものである場合、アイデアを斬新性と普遍性の理想的な組み合わせにするために、ツールはより普遍的な要素を提案することになるのです。このようにして修正されたアイデアは、よりクリエイティブと見なされることを二人の教授は発見したのです。
「我々は皆ビッグデータのツールを持っており、タグやソーシャル・ネットワークを分析することができます。これらのツールの殆どはターゲティングやマーケティングにだけ使われています。」とトウビア教授は述べています。「しかし、実はこれらのツールは人々を助けるためにも使うことができるのです。」とネッザー教授は追加述べていました。
これらの研究結果は、アイデア創出に関連するどの企業、全ての産業において意義のあることなのです。似たようなツールを他にも様々に応用できることをこの二人の研究者は期待しています。「哲学的に言うならば、良いアイデアというものは調和とバランスが全てであることを、この研究は示しています。」「そしてそのバランスは新しい商品アイデアだけではなく、それを超えた人生の多くの局面で役立つことになるでしょう。」とトウビア教授は最後にコメントしていました。

さる4月21日、Columbia Business Schoolを訪問した際に提供された季刊冊子「Columbia Ideas at Work」-Winter 2015に掲載されていた、「What Makes an Idea Creative?」という記事を要約してみました。
【バックナンバー】 http://newburybc.com/eew/
【連絡先】 smaru@newburybc.com
【配信元】  ニューベリービジネスコンサルティング株式会社     www.newburybc.com